毛利氏時代の安芸を偲ぶ広島の観光スポット3選
原爆の惨禍から復活を果たした城下町
広島市内中心部で避けて通れないのが、原爆ドームをはじめ原爆の惨禍を伝える遺物やモニュメントです。毛利氏が礎をつくり、江戸時代の城下町の発展を経て明治期以降に大本営がおかれ軍都となったことが、原爆が投下された要因の一つとなりました。市内には毛利氏の足跡を伝える史跡はあまり残されていません。城が完成したのち城下町を整備している途中で関ケ原の合戦が起こり、負けた側の総大将になっていた毛利氏は安芸をはじめとする領国を失って萩へと移転して行ったからです。その後入った別の大名らによって城下町の発展は続き、原爆によって一瞬のうちに焼け野原になってしまいましたが、数多の困難を乗り越えて水の都として復活を果たしました。
毛利のふるさと安芸高田市の吉田郡山城跡
毛利氏が広島城を築城する以前、長らく本拠地となっていたのは市内から北東に入った備後寄りの地域にある吉田郡山城です。現在は城跡のみとなっていますが、戦国時代後期には中国地方の大半を治めるほどの勢力を誇っていた毛利氏の威容がうかがえる見どころ満載の史跡エリアです。人気サッカーチームの名称の元となった三矢の訓や百万一心の石碑、毛利氏の祈願所となっていた清神社などパワースポットとしても人気が高い観光名所がいくつもあります。この地域の小豪族だった毛利氏は巧みな戦略で中国地方全域に領土を広げて行きますが、吉田郡山城一帯は山陰・山陽共ににらみを利かせやすい地であることがわかります。
毛利氏飛躍の戦いがあった安芸の宮島
安芸の宮島といえば世界遺産の厳島神社が真っ先に思い浮かびますが、戦国時代には厳島の戦いと呼ばれる激しい合戦が繰り広げられた島でもあります。当時毛利氏は隣国の周防や長門に威勢を誇っていた一派と敵対していましたが、戦力的に毛利氏に不利とみられていた戦いを、巧妙な外交戦略と奇襲作戦によって勝利に導き、中国地方の大半を掌握する道筋を付けました。現在の島内に激戦を偲ぶ史跡はあまり残っていませんが、フェリー乗り場からほど近い安芸宮尾城跡や敵の本陣があった塔の岡など、厳島神社からほど近いエリアに史跡が点在しています。
現在の広島市中心部の賑わいは、毛利氏がこの地を新たな本拠と定めて築城を開始しなければあり得なかったかもしれないだけに、毛利氏の存在そのものが安芸をはじめ中国地方全域の歴史を大きく変えたと言っても過言ではありません。築城前、砂州を埋め立てて巨大な城を築くことを砂上の楼閣と言って笑う声もあったと言われますが、立派な城と豊かな城下町をつくるというビジョンを毛利氏が抱いたからこそ現在の繁栄がある訳で、それを知る旅は普通の観光旅行以上に思い出深いものとなるはずです。